きみどりと水色の記憶(2017年8月のエッセイ)

きみどりと水色の記憶(2017年8月のエッセイ)

物心がついたばかりのまだ小さい頃、私はきみどり色が好きだった。
次に好きだったのが、たしか水色。
買ってもらったクレヨンのきみどり色と水色がやたらと短くなっていたことを
今でもうっすらと覚えている。

きみどりと水色。
大地と空の色。

小さかった自分は、まったくそんなことは意識していなかったと思うけど。

近くに図書館があって、よく絵本を借りに行っていた。

潔癖症というわけではなかったけれど、まだ誰も手にしていなさそうなきれいな絵本を探しては借りてくるのが好きだった。

家に帰って、本の最後のページにあるまっさらな貸出カードに自分の名前が書き込まれているのを見て、ひとり幸せな気持ちになっていた。あの気持ちはなんだったのだろう。

森とか木陰とかが出てくるお話が好きで、おそらくその時はまだそうゆう場所に行ったことがなかったにも関わらず、そこにいる自分をイメージしていた。

今でもたまにその時の記憶がふわーっと浮かんでくることがある。

ノスタルジックというか、その時だけ時間が止まるような、というより時間そのものが存在しなくなる感じ。
もしかしたらイメージではなく、その場所がどこかに本当にあったのかもしれない。

先日、ヒプノセラピーという催眠療法を受けに行き、今の自分に最も影響を与えている前世を見せてもらった。

催眠療法とはいっても私の場合、意識はクリアで目を瞑っているので視界は暗かった。
人によっては過去の自分がビジョンで見えたりするらしいけど、そうゆうのはまったくなかった。

ただ漆黒の夜のような暗い場所にいて、右手が舞を舞うようにゆっくりと動き出した。

動かしているのではなく、勝手に動き出して止まらなくなった。
周りに人の気配はなく、とても静かな、草原のような広い場所にいることだけが分かる。

目を開けて見ていたわけではないので、自分では右手が動いてるくらいにしか思わなかったけれど、目の前で見ていたセラピストさんいわく、とても美しい動きだったそう。

音楽の指揮をしているような動きだったらしいが、自分の中の感覚ではちょっと違った。

何かに触れようとしているような、そっと掴もうとしているような、何をしているのか自分でもよく分からず、とらえどころのない動き方。

あとで教えてもらったことだが、どうやら私は魔女かシャーマンのような存在で、自然を相手に風を起こしたり雨を降らせたりしていたらしい。

大いなる自然を循環させる役割。
手の動きはそのための儀式のようなものだったのかもしれない。

空と大地と自分。

あぁ、だからきみどりと水色があんなにも好きだったのか。
バラバラになっていたパーツが一つに繋がった。

魂は果てしない旅を繰り返している。

記憶を消された私たちには、なかなか理解できず、この世界だけが唯一のものだと思えてしまう。

最近になって少しずつだけれど、見えているものが全てではないことにようやく気付き始めている。